アーカイブスその他 Dearest Lenny のための調査においてもっとも頻繁に利用した主要アーカイブその他は以下のとおりです。

アメリカ議会図書館 
レナード・バーンスタイン・コレクション

書簡、原稿、ビジネス記録、プログラム、スクラップブック、写真など、全1,700箱以上、40万点以上の資料が含まれているこの膨大なコレクションは、個人の芸術家にかんするアーカイブとしては世界最大級といわれています。議会図書館のオンライン・イニシアティヴによって、資料のかなりの部分がデジタル化され、インターネット上で閲覧可能となっています。

ニューヨーク・フィルハーモニック・
デジタル・アーカイブ

バーンスタインが1958年から1969年まで音楽監督を務めたことで、ニューヨーク・フィルは世界トップのオーケストラのひとつとして確立 しました。このアーカイブには1842年から1970年までのスコア(バーンスタインの書き込みのあるマーラーの交響曲のスコアなどもあります)、ビジネス文書、写真、プログラムなど、ありとあらゆる資料がオンラインで検索・閲覧でき、とても楽しいアーカイブです。

レナード・バーンスタイン公式サイト

レナード・バーンスタイン事務所によって管理されている公式ウェブサイト。バーンスタインの作品リスト、ディスコグラフィー・ビデオグラフィー、講演や番組の台本や原稿、参考資料リストなどが網羅的にカバーされています。

ヒューストン・グランド・オペラ・アーカイブ

バーンスタインのオペラ『静かな場所(A Quiet Place )』は、1983年にヒューストンで初演されました。この作品を含む、ヒューストン・グランド・オペラで上演されたオペラにかんするプログラム、アーティスト関連資料、制作関連資料、音源・動画などがアーカイブされています。

パシフィック・ミュージック・
フェスティバル(PMF)

書簡、原稿、ビジネス記録、プログラム、スクラップブック、写真など、全1,700箱以上、40万点以上の資料が含まれているこの膨大なコレクションは、個人の芸術家にかんするアーカイブとしては世界最大級といわれています。議会図書館のオンライン・イニシアティヴによって、資料のかなりの部分がデジタル化され、インターネット上で閲覧可能となっています。

音楽その他

武満徹「ノヴェンバー・ステップス」(第4章)

1970年に、バーンスタインとともにニューヨーク・フィルを率いて日本ツアーをした小澤征爾が指揮した作品。武満作品のなかでも世界にもっともよく知られる曲のひとつとなりました。

バーンスタイン指揮 
ヴェルディ 「レクイエム」(第6章)

1970年にロンドンのセント・ポール大聖堂で行われた大規模な録音プロジェクト。クラシック音楽における視覚メディアの先駆者としてのバーンスタインの役割を象徴するプロジェクトのひとつとなりました。天野和子さんは、日本のテレビでこの演奏を見て感動したことをバーンスタインに手紙で伝えています。

ウィーンのバーンスタイン(第6章)

1970年にベートーヴェンの生誕200周年を記念する一連のイベントで演奏したバーンスタインが、ベートーヴェンの音楽とウィーンの街を紹介するドキュメンタリー。天野和子さんは、家族と一緒に日本でこのドキュメンタリーを観たと手紙に記しています。

バーンスタイン
「ビッグ・スタッフ」(第10章)

橋本邦彦さんがバーンスタインの招待でヨーロッパに訪れた1979年夏、ハンブルクで行われたバレエ『ファンシー・フリー』の録音に同伴しました。この曲「ビッグ・スタッフ」ではバーンスタインみずからがピアノを演奏しています。

バーンスタイン指揮 
ワーグナー『トリスタンとイゾルデ』
第1幕前奏曲(第10章)

1980年にワーグナーのオペラ『トリスタンとイゾルデ』をコンサート形式で演奏・録音するという大プロジェクトに取り組んでいたバーンスタインを橋本邦彦さんはミュンヘンに訪ね、第1幕の公演を観ました。このプロジェクトが完了したときバーンスタインは、「これで僕の人生は満ち足りた」と言ったとされています。

バーンスタイン 
「タッチズ〜コラール、8つの変奏とコーダ」
(第11章)

第6回ヴァン・クライバーン国際ピアノ・コンクールの課題曲として作曲されたピアノ独奏曲。この作品が出来上がったばかりのとき、天野和子さんはニューヨークの自宅にバーンスタインを訪ね、手書きの楽譜を見ながらバーンスタインが弾くピアノを聴きました。

バーンスタイン
「ディヴェルティメント」(第11章)

ボストン交響楽団創立100年記念祭のために作曲された組曲で、1980年に小澤征爾の指揮で初演されました。その数週間後に天野和子さんはバーンスタインの自宅でその録音を聴きました。

バーンスタイン 
『タヒチ島の騒動』(第12章)

1952年に書かれた歌劇で、バーンスタインらしい音楽的イディオムに満ちています。オペラ『静かな場所』は、この作品の続編として構想されました。

バーンスタイン 『静かな場所』(第12章)
第1幕 サムのアリア 
第2幕 四重唱 

1983年にテキサスのヒューストンで初演されたオペラ。家族や性をテーマとし、レーガン政権下のアメリカにおける社会規範に問題を投げかける内容でした。作曲中、バーンスタインは橋本邦彦さんに手紙で、「この作品を愛するのは僕たちしかいないだろう」と書きました。

バーンスタイン 交響曲第3番
「カディッシュ」(第15章)

1985年に原爆投下40年の広島で行われた平和コンサートで、バーンスタインはヨーロピアン・コミュニティ青年オーケストラと共演し、自らの作品「カディッシュ」を演奏しました。橋本邦彦さんはこのコンサートの企画運営スタッフとして奔走しました。

バーンスタイン指揮 マーラー交響曲第9番 
大阪公演 (第16章)

広島平和記念コンサートからほんの数週間後、バーンスタインはイスラエル交響楽団を率いて再び来日しました。大阪公演でのマーラー9番は、後代まで語り継がれる伝説的な演奏となりました。天野和子さんがその感動を伝えるためにコンサート直後にホテルの部屋で書いた手紙は、音楽評論家によるレビューに劣らない雄弁さで演奏の深淵さ・崇高さを描いています。橋本さんはこのツアーでもバーンスタインのアシスタントを務めました。

『ウェスト・サイド・ストーリー』
録音制作物語 (第17章)

バーンスタインの名前を世界じゅうに知らしめた作品『ウェスト・サイド・ストーリー』を、バーンスタインみずからの指揮で1985年に再録音したときの様子を追ったドキュメンタリー。公開から30年経っても色褪せない音楽のオリジナリティとエネルギー、そしてこの録音にかけるバーンスタインの意欲が伝わってくる映像です。このアルバムは、ドイツグラモフォン史上最大ヒットのひとつとなりました。

バーンスタイン 「教育者・教育」(第17章)

1988年に制作されたドキュメンタリー。バーンスタインが、みずから師事した人物たちの思い出や、自分の教育理念、教育に抱く情熱を語っています。また、小澤征爾やマイケル・ティルソン・トーマスなど、バーンスタインの弟子たちから見た教育者としてのバーンスタインの姿も描かれています。

バーンスタイン指揮 
ベートーヴェン「第九」交響曲(第20章)

1989年末、ベルリンの壁崩壊後まもなく、バーンスタインは元東西ベルリン、アメリカ、ソ連その他の諸国の音楽家たちを集めたオーケストラとコーラスを指揮してベートーヴェンの「第九」を演奏しました。第4楽章では、シラーの詩の「Freude(歓喜)」という単語を「Freiheit (自由)」に変えて歌うよう、バーンスタインは指示しました。この演奏は、20世紀の「世界のマエストロ」としてのバーンスタインを象徴するものとなりました。

バーンスタイン指揮 
『キャンディード』序曲 (第20章)

1989年末、バーンスタインはロンドン交響楽団を指揮してみずからの『キャンディード』をコンサート形式で演奏しました。序曲の部分を映したこの動画は、作品のエネルギーと、音楽をオーケストラや聴衆と共有することに至上の喜びを感じるバーンスタインの姿を伝えています。

「ザ・リハーサル 
バーンスタインと若き演奏家たち」(第21章)

1990年にバーンスタインが創設し音楽監督を務めたパシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMF)でのリハーサルと公演の様子を追ったドキュメンタリー。このイベントの企画運営にあたり、橋本邦彦さんはバーンスタインのアシスタントとして重要な役割を務めました。天野和子さんも、フェスティバル期間中毎日、リハーサルやコンサートに足を運びました。この動画の0:33では、バーンスタインのアシストをする橋本さんの姿が、1:16では、記者会見会場の客席に着物姿で座る天野さんの姿が見られます。また、札幌市民会館で演奏されたシューマン交響曲第2番は、バーンスタインと若い音楽家たちの思いの込められた素晴らしいものだったことが伝わってきます。

バーンスタイン 
『キャンディード』フィナーレ
「さあ畑を耕そう」(第23章)

バーンスタイン逝去後も、橋本邦彦さんはバーンスタインに愛を捧げ続けました。そのひとつの形が、PMF創設5周年を記念して日本初演された『キャンディード』の台本の翻訳でした。この動画では、タングルウッドで開催されたバーンスタインの70歳のバースデー・コンサートで、バーンスタインと親しい数多くの音楽家たちがフィナーレの「さあ畑を耕そう」を歌っています。